Time Remembered

ドイツ出身のピアニスト、マティアス・キルシュネライトの演奏を聴いたことがあるリスナーなら、このアルバムが冒頭の瞬間からいつもと違っていることに気付くだろう。スタインウェイの音色は確かに澄んでいる。しかし、これは、ブラームス、シューベルト、メンデルスゾーンの演奏で知られるキルシュネライトの普段のサウンドではく、モーツァルトとハイドンのピアノ協奏曲全集をレコーディングしたアーティストと同一人物とも思えない。それどころか、まず私たちを引き込むのは、ジャズ界のレジェンド、ビル・エヴァンスの名曲「Time Remembered」が描き出すさざ波のようなハーモニーだ。「私はビル・エヴァンスが大好きで、この曲のタイトルはアルバムのテーマを見事に物語っています」とキルシュネライトはApple Music Classicalに語る。続くジローラモ・フレスコバルディによる『Fiori musicali（音の花束）』の「Canzona」で17世紀前半イタリアのポリフォニーの世界を旅した後、3曲目でようやくモーツァルトが登場。キルシュネライトは『Marche funèbre del Signor Maestro Contrapunto（マエストロ対位法氏の葬送行進曲）』を、実にエレガントに奏でている。「このアルバムは音楽史のレクチャーのようなものではなく、もっとパーソナルなものです」と彼は説明する。「これらの32の小品は、それぞれが私の人生のある部分に関連しているのです」「私はジャズピアニストではありません。ジャズなら他にもっとうまい人がいます」と語るキルシュネライトが5曲目に置いたのは、ジョージ・ガーシュウィンによる「Who Cares?」だ。この曲のタイトルは、本作の“何でもあり”の姿勢を一言で表現したものなのかもしれない。しかし、アルバムにじっくりと耳を傾ければ、一見ランダムにプログラムされたように見えるこれらの楽曲の間には、無数の音楽的なつながりがあることが分かる。フレスコバルディの対位法に含まれるユーモアと遊び心は、モーツァルトの『葬送行進曲』の“不真面目”な精神と呼応しており、キルシュネライトは「モーツァルトは目を輝かせながらこの曲を書いたことでしょう」と付け加える。ドビュッシーの『Images I（映像 第1集）』の「Mouvement（運動）」と、それに続く武満徹の『Rain Tree Sketch II（雨の樹素描II）』の鐘の音のようなソノリティに共通するのは、印象派的な色彩感覚だ。「いわばそれは一房のフランス音楽なのです」と彼は言う。あるいは「はずむような感覚を持っているという意味では、スメタナの『Desire』からリストの『Schlaflos!』、そしてヤナーチェクによる心に染みる『Gute Nacht!』への流れも関連性を持っています」とキルシュネライトは説明する。より主観的で個人的なつながりもある。キルシュネライトは9歳から14歳までの幼少期をナミビアで過ごした（父親が牧師だったため、彼はポリフォニーを愛しているのだ）。彼は少年時代に親しんだビートルズへの思いをジョージ・ハリスンによる名曲「Here Comes the Sun」の演奏で表す一方、Liberation Groupによる1976年のナンバー「Namibia」のピアノとパーカッションのための編曲版で、アフリカのグルーヴを表現している。10代のうちにドイツに戻ったキルシュネライトは、デトモルトでRenate Kretschmar-Fischerに師事した後ハンブルクに移り住み、現在もそこに住んでいる。「Bagatelle »an die verlorene Zeit«」は地元の作曲家であるEttore Prandiが、このアルバムのために書き下ろした楽曲だ。聴き手を音楽の記憶のポケットへといざなう本作には、「an die verlorene Zeit」、すなわち“失われた時へ”というタイトルを持つこの曲以外にも、時間の概念に関わる楽曲がいくつも収録されている。ブルックナーの「Erinnerung（思い出）」は、ラヴェルの「Pavane pour une infante défunte（亡き王女のためのパヴァーヌ）」とグリンカの「Memories of the Mazurka（マズルカの思い出）」に続いて演奏される。催眠的な雰囲気で人気のサティによる名曲『Trois Gymnopédies』の「No. 1」（ジムノペディ 第1番）は、まるで時が止まったかのような雰囲気を醸し出し、バルトークとビル・ウィザーズを挟んで、映画『カサブランカ』のテーマ「As Time Goes By」のノスタルジーと共に、アルバムは幕を閉じる。「私はコントラストを付けることが良い効果を生むと思っています」とキルシュネライトは言う。「コントラストは私たちをインスパイアし、生き生きとさせるのです」